男子大学生の日常

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福音派プロテスタントと社会正義・政治

以前、一度書いた気がするが、再度考えさせられることがあったので、整理しておく。

アメリカのプロテスタントには福音派と主流派という2つの大きな集団があり、現在前者が拡大している。私が所属する教会も、アメリカの福音派の境界が母体であり、さらに遡れば北欧のルター派教会が源流になる。

ところで、ルターが主張した考え方に「二王国論」という思想がある。これは、事例としては、ドイツ農民戦争に対して冷めた姿勢を取ったことと関連している。

二王国論とは、簡単に言えば、神の国と世俗の国を概念的に分別し、クリスチャンは専ら前者に関与し、後者は秩序維持能力の維持程度で良いという考え方だ。後者だけ見れば、ノージックリバタリアニズム的な思想と似ている。

これを批判したのがニーバーである。ニーバーが主流派かどうかはよく分からないが、社会改革をかなり強く志向している点は主流派に近い気がする。

 

私はシンクタンクに就職するので、社会正義を目指していく立場にある。だからこそ、この論点は以前からずっと考えていた。

現時点での私の考えとしては、「隣人愛の具体的な表現型としての社会改革は良い」という感じだ。ルターは隣人愛の重要性を認めているし、聖書にもそう書いてあるので、それは間違いない。そして、隣人愛はクリスチャン同士にしか適用されないわけではなく、ノンクリスチャンに対する愛のある対応も含んでいる。ならば、公共政策によって社会的弱者を支援したり、より人々が幸福になれる社会を目指すことは、隣人愛の延長線上として位置づけられると思う。

しかし、まだ分からないのは、愛情をもって人に接するという時に、「どのような状態を善とするべきか」ということだ。例えば、電車でお年寄りに席を譲る時には、「お年寄りの身体的疲労が少ない」という状態を善と措定しているわけだが、それは果たして隣人愛なのだろうか?隣人愛とみなせるなら、それはなぜか?

つまり、ある行為が隣人愛であるか否かは、「良い状態」をどう定義するかにかかっている気がしているのだ。プロテスタントにおいては、基本的に義は聖書に明示されている。だから、神が決めた「社会の望ましい状態」に向けた行為及び行為を志向する意識が「隣人愛」であるならば、まずは「社会の望ましい状態」を知る必要がある。

 

 

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