男子大学生の日常

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出エジプト記から考える神の存在の確証を得る方法

出エジプトにおける荒野の40年間はイスラエルの民にとっての神の存在の確証がテーマになっている

出エジプト3:12,14では、神がモーセ率いるイスラエルの民に対してご自身の存在を示している。

一方で、17:7では、イスラエル人が「主が私たちの中におられるのか、おられないのか」と主を試みたとある。

それがマサ、メリバの地名の由来となり、詩篇95:8でも引用されている。詩篇95篇は礼拝の詩篇と言われる箇所だが、「きょう御声を聞くなら、マサ、メリバの時のように心をかたくしてはならない」と書いてある。つまり、礼拝の中で神の声を聴くのであり、その際に神の存在を疑わない姿勢を持つべきだということになる。

 

〇神の存在の確証を得る方法

全く根拠が無いのに何かを信じる人はいないだろう。ある程度の教育を受けている人なら、そんなことするはずがない。

だから、神の存在を信じるには、それなりの根拠が必要になる。

この根拠には、主観的根拠と客観的根拠があると考えている。

 

客観的根拠は、この世界のデータから、事象の妥当性を評価することで、確からしさを知ることである。神はこの世界の外にいるので、神の存在や神が世界に介入している因果関係を推定することはできない。この世界のデータしか集められないからだ。

しかし、この世界が外部からの働きかけが無ければ成立しないことが示せれば、有力な根拠になりうる(最も、外部の存在がキリスト教が想定するヤハウェであるという根拠はなく、空飛ぶスパゲッティ・モンスターかもしれない)。方程式による説明、つまり決定論的な説明が通用しない現象、確率的な現象、カオス的な現象などの存在は、神が存在していることの証明の補強材料になる。

また、2000年前には神がこの世界に存在したことがある(イエス・キリストとして)ので、そのデータの確からしさを評価することも有効である。また、聖書の内容が真理であるかどうかを書物としての成り立ちの点から評価することもできる。主に考古学や神学(聖書学含む)が有用なのはこのためである。

プロテスタント福音派は、「聖書は神の言葉である故、何の間違いもない」と主張するので、聖書の内部での論理的整合性や、聖書と外部の世界の整合性を評価するのも手である。しかし、通常聖書は複数通りの解釈ができるので、「聖書が間違っている」と証明するのはかなり難しい。ある文章が4通りの解釈ができる時に、4パターン全てを反証しなければならないからだ。もっとも、全て反証できたとしても、「正しい解釈を人間が思いついていないだけ」と言うこともできてしまう。

 

一方、主観的根拠とは、自分が神の存在を感じ取ったかどうかということである。例えば、自分の人生が予期せぬ方向に進んだが、結果的にそれに満足した場合、それを「神が私に最善の道を拓いてくださった」と「実感する」ことがある。しかし、これは「たまたま」とか「奇跡」として片づけることもできるので、ある程度の信仰が必要かもしれない。しかし、客観的根拠だけでなくこちらも明示しているのは理由がある。以前、牧師に「信じる→神の存在を実感する→信じる→…」という円環があることを教わった。そして、これは確かにあって、正のフィードバックが働いているのである。まあ、円環の一番最初は「客観的根拠→信じる」かもしれないが。