男子大学生の日常

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映画レビュー:『パルプ・フィクション』(1994)

〇感想 4点/5

クエンティン・タランティーノ監督の作品で、オスカーの多部門でノミネートしている。

2時間半もある映画だが、飽きない。面白い。

また、キャストが豪華なのも良い。

全体を通じたストーリー展開やメッセージはない。むしろ個別のシーンが丁寧に作られているので、各シーンごとに没入する感じ。

時系列順でない仕掛けは、当時は珍しかったのかもしれないが、今から見れば普通。

 

この映画自体が「パルプ・フィクション」、つまり「くだらない話」だとする考察も散見されるが、自分にとってはサミュエル・ジャクソンと聖書のストーリーは良かった。

銃弾が当たらなかったことが奇跡かどうか議論するシーンがあるが、「問題は奇跡を目で見たかどうかって事じゃねえ。重要なのは、俺が神の存在を感じたってことだ」というセリフは、深く共感してしまった。全くその通りだ。イエス・キリストが地上にいた頃や、使徒が伝道をしていた時代は分かりやすい奇跡が目の前で行われていたが、現代でそんなことは滅多にない。むしろ、聖霊の働きが最大の原動力だ。友達と話すと、大半のノンクリスチャンは、「頭で教義を理解して信じる」と勘違いしているようだが、進化論がどうとかビッグバンがどうとかははっきり言って周縁的で些細なことに過ぎない。神の存在は論理的に理解するものではなく、霊的に感じるものだ。論理は後からの補強にすぎない。

科学によって世界の事象の因果メカニズムは解明され、どのような事象がどのような確率で起こるのか理解できるようになってきた。しかしながら、低い確率の事象が生じた時に、それをただの低確率とみなすか奇跡とみなすかは受け手次第だ。例えば、サイコロの6を連続で出すのに、何回までが「まぐれ」で、何回からが「奇跡」なのか。それに本質的な閾値を設定できるのか。できるわけない。

しかし、決定論的世界観と確率論的世界観のどちらを取るかによっても奇跡の考え方は異なる。微分方程式のような「方程式」は決定論的であり、それに誤差項εを足せば確率論的になる。社会科学では後者を取っているが、それは変数の多さによるのだろうか。科学哲学とかもゆっくり勉強したい。