男子大学生の日常

男子大学生の雑記ブログです

自分は霊的な働きを軽視しているのかもしれない

最近2つのことが同時に重なって、少し悩んでいる。

 

1つ目は、教会のメッセージが面白くないことだ。

説教の内容は、聖書箇所の内容自体を適切に解釈する+派生した話をするというものだが、前者については「普通に読めばわかるだろ」ってことを繰り返すだけで、後者についてはすでに聞き慣れた中心的教義を繰り返すだけだ。

それに対し、私が望んでしまう内容は2つある。

1つは、神学的知見。牧師は神学校に行っているのだから、ある程度専門的な内容を教えてほしい。もう1つは、実社会での生活で活きる応用的な内容。説教の内容が社会と離れすぎてて、教会と外が異空間になってしまっている。それでは、サンデークリスチャンも増えかねないし、あまり役に立たない話になってしまう。最近の社会的・政治的問題や教会と社会の関わり方、教会史の話などは個人的に面白い。

 

2つ目は、信仰書が面白くないことだ。

逆に何が面白いかと言うと、神学、考古学、自然科学(宇宙物理学や分子生物学)、社会科学(宗教学や政治学社会学)などの本だ。専門的な知識を学ぶ方が楽しい。

 

 

礼拝は大学の講義とは違う。つまり、メッセージを「学びがある/ない」「面白い/面白くない」で評価するべきではない。

しかし、説教で面白い話をする牧師とそうでない牧師がいたら、前者を好んでしまう。

 

霊的と知的を分けるとすれば、私は後者に偏ってしまっている気がする。それはイエス・キリストの弟子よりも律法学者に近い。これはかなり危険だと自覚している。

 

しかし、自分は、アカデミックな勉強を始めてから、余計に霊的にも成長したという意識がある。霊的と知的では前者が相対的に重要だが、それらは補完的なものである。

私が最も好きな巻である箴言は、知恵の重要性を指摘している。

 

信仰をかたく保ち、霊的に成長しながら、より神様のことを知ることができるように祈っていきたい。