男子大学生の日常

男子大学生の雑記ブログです

なぜ意味充実の研究が必要か?

私はこれまで役に立つ研究が「良い」研究であり、大学で行われる全ての研究は公共の役に立つ「べき」だと考えていた。なぜなら、ほとんど全ての研究の研究費には税金が投入されているからである。「面白いから」とか「知的好奇心を満たすから」とかの機能しかない研究は、自分の資金で在野で研究すべきものだ。

しかし、上記の考え方は大前提として持っているものの、最近少しだけ意見がまろやかになってきた。というのも、社会の役に立つ研究はシンクタンクでやればいいからだ。私はだからシンクタンクに就職することにしたし、シンクタンクで統計的因果推論に基づく政策効果分析などが行われている状況は望ましいと考えている。また、アカデミアで上記のような研究をしても、残念ながら公務員や市民にその知見が直接届く可能性は低い。

よって、シンクタンクとは区別されるアカデミアで何を研究するべきかは正直定かではない。基礎研究やビジネスにならない研究は該当するかもしれない。

 

このようなことを考えていると、意味充実に関すること(文化、宗教、社会意識)こそアカデミアで研究すべきことなのではないかと感じるようになった。

しかし、もっと積極的な理由もある。それは、多くの生活ニーズが満たされる理想社会においては、そのような文化的要素がより重要性を持つことである。

私が好きな言葉を2つ紹介しよう。

1つ目は、ジョン・メイナード・ケインズの言葉だ。

 

「経済問題が本来の場所である後方に退き、心と頭の中心的な関心が本当に大切な問題で再び占められる日が近づいてきた。本当に大切な問題とは、人生であり、人と人の関係であり、創造や振る舞いや宗教である」

 

2つ目は、マタイの福音書の言葉だ。 

 

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」

 

これらの言葉が示しているように、私たちの人生は意味的充実を必要とする。そして、これからの社会で重要性を増してくるのはそういった要素である。「良い大学、良い会社、内部昇進…」といった社会的に共有された価値は融解し、「色々あり」な時代になっている。価値が多元化すれば人々は自分の依拠する価値(生き方)を外的に保障してもらうために他者からの評価を気にするようになる。そのような承認欲求が満たされない一部の人々は、病的になっていく。

それに対して、宗教は絶対的な価値、人生の目標を提供する(他者を媒介する評価は全て社会的=相対的である)。「なぜその行動を選択したのか?」という問いを突き詰めていけば、多くの人は言語化不可能なふわふわしたものに基盤を置いていたことに気づくだろうが(経済学は「効用」という概念を用いることでこの無限後退を回避している)、信仰者は行動選択の大元に教義が示す正義を置く。

 

外的な価値の供給元を他者に置き続けるのか、それとも宗教のような新たな供給元を模索していくのか、はたまたそのような外的な供給が無くても生きていけるように進化していくのか。これこそが、今後の社会を捉えるために注目すべき最大の問いだと考えており、この中で宗教が主要なアクターの一つであることは間違いない。