男子大学生の日常

男子大学生の雑記ブログです

宗教経済学に触れてみた

社会学と経済学は極めて似ており、特に数理社会学ー計量社会学ミクロ経済学計量経済学という対応関係はほとんど同じである。ゲーリー・ベッカーが経済学の手法を伝統的な研究対象以外に応用し始めたあたりから、家族・教育・医療などの領域で応用が始まり、現在では多くの領域の経済学が存在する。山口慎太郎先生のインタビューでも「社会における人間の行動は何でも研究対象になるという感じですね」ということだった笑

私は社会学アイデンティティとか気にしてないので、むしろこの傾向を称賛している。学問間の方法論が統一されていくことは相互交流を活発化させ、互いの知見の理解可能性を高める。社会学、経済学、政治学の内、「社会全体」を分析対象にしていたのは社会学だけだったので(ex. パーソンズ)、社会学の社会科学化が進むと考えていたが、このままいくと経済学の社会科学化が進むだろう。統一されることを望んでいた自分にとっては、はっきり言ってどっちでもいいし、理論と実証の関係がしっかりしている経済学の方が社会「科学」の構築には良い気もしている。

 

ところで、これまで私は、宗教は社会学の占有領域だと思っていたが、それはとんだ勘違いだった。

中田大悟2018「近年における宗教経済学の新展開:ショートサーベイ」とレイチェル・M. マックリアリー&ロバート・バロー2021『宗教の経済学』を読んでみたら、最近宗教経済学の研究は盛んになっているらしい。

どれもエキサイティングな研究ばかりで、とても面白かった。

中田(2018)では、ミクロ経済学の理論と計量経済学の実証研究が紹介されている。理論は、「死後の便益」を導入することで機会費用の影響力を弱化するという視点や、厳格な行動規定を強いる理由としてのクラブ財の視点は興味深かった。また実証研究も、宗教参加・信仰心を従属変数とする研究(ex. 世俗化仮説の検証・クラブ財モデルの検証)と独立変数とする研究(ex. ウェーバー仮説の検証・ラマダンの機能)が紹介されていて、どれも興味深い。世俗化仮説の検証が国単位のデータを使ったマクロレベルの分析からミクロレベルの分析へと移行しているという指摘は私にとってはとても重要で、個人の行為レベルのモデル化&検証が必要だという考えと一致していた。

 

しかし、宗教経済学はやはり「経済成長」や「賃金」などの経済的な効果に縛られる傾向があるらしい。宗教を従属変数とする研究はそうでもないが、それでも機会費用を表現する指標として賃金が使われているといったことがある。その点、社会学は自由度が高い。

ミクロ経済学のモデルは確かに有用だが、経済変数以外の変数を取り入れても良いはずだ。つまり、合理的選択理論の中で、使用する変数を経済変数から拡張するという目標を数理社会学で達成することができるかもしれない。

階層論や教育社会学の研究は、経済学の人的資本論に対し、シグナリング論やClosure論、Credentialsim論、制度理論などの他の説明理論を構築してきた。このように、経済学の理論をたたき台として、社会学が考慮する変数を拡張していくという在り方は、宗教においてもありえるかもしれない。

 

また、日本の研究は宗教経済学においても少ないらしい。宗教社会学の計量的研究も日本で少ないので、海外のリサーチデザインを参考にし、日本の知見の国際的な意義を意識しながら、日本(東アジア)を対象とした研究をやっていけたら良いと考えている。

 

 

最後に最大の問題がある。キリスト教の研究を私はできるかという問題だ。私はクリスチャンなので、他の宗教は概ね間違っていると考えており、他の宗教を合理的選択理論の観点(人間が宗教を人為的に社会的機能を目的として創造した)から分析することは問題ない。しかし、クリスチャンは幸福感を高めたいからとか健康になりたいから信じているのではないことを知っている。つまり、そのような研究は侮辱に値するかもしれない。しかし、宗教を独立変数とする分析はその限りではない。なぜなら、潜在的機能として片づけられるからだ。宗教を選択するモデルを構築する時に置く仮定がクリスチャンを侮辱していると言える可能性があるのが難しいところだ(そもそも「宗教を選択する」自体かなりの侮辱だ)。どのように研究を正統化できるか、乃至はできないのか、もう少し考えたい。

⇒(追記)一晩考えてみて、特に問題はなさそうだという結論に至った。例えば、「人々は効用最大化によってキリスト教を信じる」という仮定からの演繹によって現実のデータを再現できたとしても、それは「仮定A→結果X」を立証しただけで合って、「仮定B→結果X」が存在しないor真理ではないことの根拠にはならない。更に詳しく内部メカニズムを探求し、真理に向かってモデルを改善していけば良いだけだ。結局、信者・教会から「そんなメカニズムではない」という批判を受けた際には、①モデル構築と解釈の間の関係性が歪んでいたり、特定の解釈に限定できるような厳密なモデル構築がなされていなかったor②批判する人たちが勘違いしている、のどちらかであり、このような批判と改善のプロセスは、科学的な真理探究プロセスそのものである。「真理に到達できる」とは私は思わないが、唯一の真理が「存在する」と仮定するのが科学であり、信仰も社会現象の一つである以上そこに正解はある。「神の意図」などの現実社会のデータからは検証できない変数についても言及、拡大解釈するようなことはしなければ、宗教社会学や宗教経済学の研究活動は意味のあることだと思う。