男子大学生の日常

男子大学生の雑記ブログです

この世界は決定論か確率論か?

量子力学の世界

量子力学では、確率的に決まる(古典物理学が想定していたように決定論的に決まらない)事象の存在が明らかになっている。観察確率は波動関数の二乗で表されるようだ(しかし「観察」と「生起」も異なるらしいので、それは今後考える)。

ここで言う「確率的」というのは、以下の例のような頻度論的なものとは異なる。例えば、1年間の内に飛行機墜落事故が生じる確率は頻度論的に算出できる(墜落事故の件数/1年間の全フライト件数)。しかしながらそれぞれの墜落事故は「起こるべくして起こった」のである。例えば「整備士の準備不足」であれ、「バードストライク」であれ、何らかの事故の原因が特定できるはずで、そこには原因ー結果という因果関係が確かに作用している。

量子力学で言っていることはそういうことではなくて、飛行機Aが墜落するかどうかは確率的に決まっており、何らかの確率分布に従っているということなのである。

 

カオス理論とかも含めてマクロな現象を分析する時に確率的な挙動が確認されることはあるだろうが、それも違う。それはミクロなレベルでは事象として決定論的に決まっているけど、「広い視野で見てみると確率的に見えるよね」という便宜的(非本質的)なものである。

量子力学は事象の生起自体が確率的に生じると言っているのであり、大変興味深いし、これがどれほどマクロな事象にも作用しているのかについて解明が進んでほしい。

 

キリスト教から考えるこの世界

世俗的な確率論・決定論キリスト教的な決定論は以下のように整理できる。

 

地上世界の変数だけで100%説明ができる=「(世俗的な)決定論」=唯物論

地上世界の変数だけで100%説明ができない=「(世俗的な)確率論」=唯確率論=「(キリスト教的)決定論

 

クリスチャンとしての私の考えは、この地上世界及び天国なども含めた(言葉通りの)全体世界は因果的に、決定論的に決まっているというものだ。それは全知全能の神がビッグバンや洪水などの形で介入する力があるし、「確率的に事象が決まるアルゴリズム」自体を世界の創造の段階で組み入れていたのなら、それ自体は決定論的である。

人間にとって確率的に見える挙動も、天国などのデータを考慮すれば、決定論的になっているだろうというのが信仰者としての私の予想だ。つまり、「どれだけ実験を精密にデザインしても考慮に入れられていない作用してしまっている変数Xが存在する」という世俗的な決定論を信奉する科学者の量子力学への批判を借りれば、「その変数Xとは神の介入である」と言うのが私の考えだ。